2007年11月1日木曜日

日本、アメリカにおける高校生のグループ形成

日本の中においても男子校・女子校・共学、私立・公立、あるいは地方・都市でそれぞれ高校生のグループ形成方法が違うのかもしれない。私は「都心」の「私立」「女子校」という一般的とはいえない環境で高校時代を過ごしたため、「グループ形成」というものにあまりご縁がなかった。あるいは単に私が意識しなかったからかもしれない。もしグループという名前のものがあったとするならば、それは部活単位で作られたまとまりであった。彼女たちがまとまるのは趣味(つまりはやっている部活)が共通しているという点、部活のある日とない日が共通しているため一緒に帰宅しやすい点、などにおいてほかの部活の友達よりもともに過ごす時間が長かったということがグループ形成の最大の原因だったのだろう。しかし他の高校出身の生徒は「勉強する人」「しない人」や「オタク」と「運動部」でグループが形成される、と言っていた人もいた。
日本におけるグループ形成には相違点も多々あるが、共通点もある。それはそれぞれのグループに優越がなく、互いに共存しているという点、そして大抵の生徒がなにかしらのグループに所属し、その中で自分が「みんなと同じ」だという安心感を持っている点である。これまでの授業や教科書を通じてわかった高校性のグループ形成におけるアメリカと日本の一番の相違点は「地位を気にするかしないか」、「個性を周りが認めるかどうか」の違いであるだろう。
Murray Milnerの文章においてはたびたび「地位」という言葉が見受けられた。彼女の文章によれば人気の高い人と友達になって一緒にいることや洗練された服を着ることは自分の地位を上げることにつながるのだという。人気のある生徒というのは当然日本にもいる。しかしその人と一緒にいるのは自分の地位などとは全く関係なく、その人が魅力的であるから自然に引かれていくのではないだろうか。ただ、こういえるのは高校性であるからと言えるかもしれない。いったん会社という組織の中に所属するといわゆる「コネ」を作って自分を有利にするために権力を持った人に取り入る、ということはしばしば起こるものだ。筆者はまた高校生は政治・経済的な力がないから「地位」によって安定を保つ、と述べていたが、前述した日本の会社員はこのケースであることは言うまでもない。日本の高校生は「学生」であることを特権に、社会の仕組みとはすこし違う仕組みで生活しているが、アメリカは高校生のうちから一般的な社会と同じような仕組みで生活することを強いられているのかもしれない。
さらに、「個性」という点においても日本とアメリカではかなりの違いがあると思う。日本は昔から「個性」というものをあまり認めない文化が形成されてきた。「出る杭は打たれる」とはよく言ったもので、あまりに突出しているものは好まれない、あるいは疎んじられるものなのだ。これは「いじめ」が日本にあってアメリカに存在しないことに関連すると思う。アメリカでは個性的な人がいてもその人たち、グループに対して(いくらその名前が差別的であったとしても)名前が付けられる。ということは少なくとも他の人たちがその人たち、あるいはそのグループの存在を認めているということである。日本の場合、それらの存在自体を認めず、それを消してしまおうとする傾向があり、それがいじめにつながっているのではないだろうか。
アメリカと日本、歴史的背景も人種も高校の仕組みもすべてが違う文化同士を単純に比較するのは難しい。しかし「互いの相違点を学び、尊重し、受け入れていくこと」が時・場所にかかわらず大切なことなのかもしれない。

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